【きまぐれ徒然日記】自分でつくる野菜に感じる可能性


祖父母は農家だった。

祖父母の家に遊びに行くと祖父母がつくった米や野菜、正月などのおめでたいときには飼っている鶏と根菜を煮込んだ「がめ煮」が食卓に出たりした。

子供のころのぼくは、祖父母がつくってくれたもの自体に感動したり、ありがたみのようなものを感じたことはなかった。祖母がつくる料理には、祖母らしさみたいなものがあり、おふくろの味ならぬ、ばあちゃんの味は、楽しみだったのだけど。例えば、キュウリの皮を細い線状に残してむき、分厚くスライスしたキュウリにマヨネーズをかけ、2、3滴だけ醤油をたらしただけのワイルドさと上品さがある一品は、ばあちゃんの鉄板だ。

先日、農的なゲストハウスをめぐった。ゲストハウスのオーナーやご家族が自らつくった野菜や米、同様に自ら育てた小麦を使ったパン生地をゲスト自身が焼いたパン、そして、オーナーさんと一緒に早朝の畑に行き、野菜を採り、一緒に朝食を調理し、いただいたりした。

ゲストハウスごとに異なるやり方の中で共通して感じたのは、おいしかったし、ぜいたくだなということ。

ところで、ぼくは、去年から野菜づくりをはじめた。野菜は思いのほか簡単にできるのだなと驚いたり、虫やうさぎにほぼ食べられながら食べられず残った野菜がうれしかったり、自分でつくった野菜はおいしい。でも、ゲストハウスで食べるのとは、何かが違うように思う。

何が違うのだろう?

ぼくは一人暮らしなので、自分でつくった野菜を人にあげることはあっても、食べることは自分一人。ゲストハウスでは、テーブルを囲み一緒に食べた。

自分一人で食べる場合、自分がつくった食材においしさを感じる。

一緒に食べる場合、自分一人で食べる場合と同様に、自分がつくった食材においしさを感じる。

さらに、一緒に食事をしている人がつくった食材に人は安心さやおいしさを感じたり、人がおいしそうに食べるのをつくった本人が目にすることは、うれしいことではないだろうか。つまり一緒に食べる場合、プラスアルファがあるのではないだろうか。

自分がつくった野菜や食材とゲストハウスに限らず自分で宿を運営することを組み合わせることは、相性がよさそうだ。農的というキーワードに限らず、何かしら自分でつくり、それをゲストさんと一緒に楽しむみたいなスタイルは、いいかもしれない。

祖父母もプラスアルファを感じていたのかもしれない。今度、野菜ができたら誰かと一緒に食べてみよう。
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